廃墟か遺跡
2013年01月31日 失われた世界34の都市
自然災害、あるいは戦争などの人為的災害、
ゴーストタウンと化した都市は世界各国に多数存在する。
元凶がなんであれ、これらの都市は数世紀後に再び発見
されるまでの間、人々の記憶から忘れ去られていたのだ。
34.カルタゴ
かつて現在のチュニジアに位置したカルタゴは、
フェニキア人入植者により建設され、地中海地域の主要な
都市国家としての支配力を持った。シラクやローマとの
対立が数度の侵略戦争を生み、その中でもスキピオ・
アフリカヌスに率いられたローマの侵攻は目をみはるもの
があった。
紀元前146年にこの都市はローマ人に滅ぼされた。
その後ローマ人はカルタゴ市内を一軒一軒回って破壊や
略奪を行ったり、人々を捕虜や奴隷にした後、この都市を
炎上させた。しかしローマ人はカルタゴを再建し、それは
帝国で最大かつ最重要な都市の一つになった。新しい
カルタゴは紀元698年アラビア人の侵攻を受けて二度目に
破壊されるまでの間は重要な都市として残っていた。
33.シウダー・ペルディーダ
スペイン語で"失われた都市"を意味するシウダー・
ペルディーダは、コロンビアのシェラネバダの古代都市。
紀元800年頃に建設されたと考えられている。この都市の
山の斜面につくられた台地が連なり、タイル張りの道は
網の目のように広がって小さな円形の広場がいくつかあった。
この地の部族達はこの都市をティアーナと呼び、彼らの
祖先が住んでいた村々のネットワークの中心部、タイロナ
だったと考えていた。この都市はスペインによる侵略の
最中に滅びたようだ。
32.トロイ
トロイは現在のトルコ北西部の伝説の都市。ホローメスに
よる叙事詩、イーリアスで知られるようになった。
イーリアスによると、この地域はトロイア戦争の舞台と
なった。トロイの遺跡には残骸の層がいくつか含まれている。
その中の第VII層が、ホメーロスのトロイによって記された
紀元前13世紀中期から後期に相当するのでは、
と考えられている。
31.スカラ・ブレイ
オークニー諸島のメインアイランドにあるスカラ・ブレイ
はヨーロッパの中で最も保存状態が良好な石器時代の集落の
一つ。1850年に巨大な嵐がこの遺跡の姿を露出させるまで、
何百年もの間砂丘に覆われていた。数戸ある住居は、
この集落が放棄されてからほぼ直後に砂で満たされたため、
石壁は比較的良い状態で保たれていた。またこの島には
樹木が無く、家具類は石造りに限られたこともその理由の
一つだ。およそ紀元前3180年から2500年に人々はここで
生活を営んでいたが、その後の気候変動で寒さや湿気が高く
なり、居住地はその住民によって放棄された。
30.メンフィス
紀元前3100年頃に建てられた古代エジプトの首都、
メンフィスは、上エジプトと下エジプトを統一した王である、
メネスの伝説の都市。メネスが支配した土地と、上エジプト
とナイル川のデルタ地帯の間の水路のあるメンフィスは、
初期の頃は要塞都市のようだった。しかしその後ヌビア、
アッシリア、ペルシア、そしてアレクサンドロス3世の
率いるマケドニアによって次々と侵攻される。宗教的な
中心地としての重要性はキリスト教の台頭とそれに続く
イスラム教によって弱められた。紀元640年のエジプトの
ムスリム侵攻後、この都市は見放された。その残骸の中には
プタハの大神殿や王宮、そしてラムセス2世の巨像があり、
メンフィスの埋葬地ネクロポリス、サッカラに残されている。
29.カラル
ペルーのスーぺ谷にあるカラルは、アメリカ大陸で
失われた都市の中では最古の一つ。およそ紀元前2600年
から2000年の間住民が生活していた。3,000千人以上が
定住したとされ、ノルテ・チコ文化時代の都市の中でも
最大級だった。そこには中央の巨大な広場の周辺に6つの
丘が配置してある公共スペースがあり、スーぺ谷にある
他の都市も同じつくりをした小さな丘やストーンサークル
があった。このことから、カラルがこの文明の中心だった
ことが推測できる。
28.バビロン
メソポタミアの古代帝国バビロニアの首都バビロンは
ユーフラテス川のそばにあった。紀元前1180年頃その都市
は無政府状態に陥ったが、紀元前9世紀以降はアッシリア帝国
の属州としてふたたび栄えた。バビロンの鮮やかな色や豪華
さは、伝説の空中庭園を建設したとされているネブカドネザル
(紀元前604-562年)の時代として世に知られるようになった。
現在この有名な都市の遺跡は全て泥レンガ造りの建物の残骸
や破片になり、イラクに流れるチグリス川とユーフラテス川
の狭間の肥沃なメソポタミア平野に残っている。
27.タキシラ
パキスタンの北東部にあるタキシラは、紀元前518年に
ペルシアのダレイオス大王に併合された古代都市。
紀元前326年、アレクサンドロス大王に引き渡された。
時代の征服者達に次々と統治され、この都市は有力な仏教徒
の中枢となった。紀元1世紀には使徒トマスがこの都市を
何度も訪れたという。三大交易路の交差する位置にあった
ことが古代タキシラに繁栄もたらした。しかしその交易路が
衰退するにつれ、この都市も廃れた。その後5世紀に入り、
フン族によって滅ぼされた。
26.スコータイ
スコータイはタイ王国の初期に存在した最も重要な歴史的
都市の一つ。元々はアンコールを首都としたクメール帝国内
の地方都市だったスコータイは、13世紀に独立して最初の
タイの連合州の首都となった。その古代の街では80,000人
ほどの人々が生活していたという。その後1351年、タイ王朝
の強力なライバル都市としてアユタヤが台頭し、スコータイ
の影響力は衰え始める。そして1438年、その街は征服され
アユタヤ王国に併合された。スコータイは15世紀の後期から
16世紀初頭まで放棄された。
25.ティムガット
ティムガットはアルジェリアにあったローマの植民都市
で、およそ紀元100年にトラヤヌス帝によって建設された。
当初、およそ15,000人の住民のために建設された都市は、
急激に拡大し、本来の碁盤目状の区画を超えて広がって
いった。5世紀に入りこの都市はバンダル族に略奪され、
2世紀後にバルバル人に侵攻された。この都市は1881年に
発掘されるまで、ローマ帝国の歴史から消えていた。
24.モヘンジョダロ
紀元前2600年頃に建設されたモヘンジョダロの位置は
現在のパキスタンにあたり、世界でも早期に形成された
集落都市の一つだった。"古代インダス文明"として扱われ
こともある。完璧なパターン設計を用い、計画的に区画整理
がされていた。この都市の最盛期にはおよそ35,000人の
住民がいた。都市の建物は特に文明的で、泥を焼き、
天日干しした同じサイズのレンガと焼きを入れた材木で
できていた。1920年代に発見されるまで、モヘンジョダロ
とインダス文明は紀元前1700年頃の歴史から消滅していた。
23.グレート・ジンバブエ
石の遺跡の複合体であるグレート・ジンバブエ。この名が
付けられた理由は、現在のジンバブエあたりに広がっていた
こと、広い範囲に渡って存在する何百もの小さな遺跡と区別
するために"グレート"が付加された。11世紀にバンツー族
によって建造が開始され、作業は300年以上続いた。最盛期
のグレート・ジンバブエには18,000人もの人々が生活して
いたとされている。その勢いが衰え、最終的にこの地が
見放された原因は貿易の減少、政治の不安定や厳しい食糧難、
そして気候の変化による水不足のせいだ、という説がある。
22.ハトラ
パルティア帝国の影響下にあり、アラブ王国最初の首都
でもあった広大な要塞都市ハトラは、幾度もあったローマ
帝国の襲来に対し、その塔で補強された高く厚い壁で耐え
しのいだ。しかし紀元241年、ササン帝国ペルシャの
シャープール1世によって陥落され破壊された。イラクに
あるハトラの遺跡の中でもとりわけローマの建築様式と、
ギリシャのヘレニズム様式が東洋の装飾的な特徴と融合
した寺院は、この文化の偉大さを証明する。
21.サーンチー
サーンチー遺跡は1千年以上の建築史を持つ。
紀元前3世紀の仏舎利を納めるための建物(卒塔婆)を始めとし、
紀元10世紀または11世紀の仏教徒の寺や修道院までが
遺跡の中に横たわる。インドで仏教が衰退した後の13世紀、
サーンチーは放置されてあっという間に密林と化した。
この失われた都市は1818年、イギリス人士官によって
発見された。
20.ハットゥシャ
ハットゥシャは紀元前17世紀、ヒッタイト帝国の首都と
なった。しかし紀元前1200年頃に青銅器時代の崩壊時に
帝国と共に破壊され、その後この遺跡は捨て去られた。
この都市の最盛期の人口は40,000から50,000人だったと
推定されている。木材と泥レンガで造られた移動式の住宅
など跡形もなくなくなってしまったが、石造りの寺院と宮殿
の遺跡はかろうじて残されている。この遺跡は20世紀初め、
トルコの中央部でドイツの考古学者達に再発見された。
最も重要な発見の一つになっているのは規則や手続き、
そして古代近東地域の文学などが刻まれていた粘土製の板だ。
19.チャン・チャン
ペルーにあるれんが造りの広大な都市、チャン・チャンは、
コロンブスアメリカ到達以前で最大の都市だった。建物は
日干しれんが製で、仕上げには泥を使い、そこにはしばしば
アラビア風の模様が浮き彫りで施されていた。この都市の
中心には数枚の壁で囲まれた要塞があり、中には儀式用の
部屋、埋葬室、そして寺院が設けてあった。紀元850年代に
チムー王国によって建てられ、1470年、インカ帝国によって
侵略されるまで存続し、約30,000人の人々が生活を営んで
いたと考えられている。
18.メサ・ヴェルデ
メサ・ヴェルデはコロラド州南西部に位置し、断崖に
造られた古代アナサジ族の住居が集まっていることで有名と
なった。12世紀、アナサジ族は奥行きの浅い洞窟の中や、
その峡谷の壁に沿って張り出している岩の下に住居を造り
始めた。中には150もの部屋を有する住居もあった。
1300年には彼ら全員がメサ・ヴェルデから去ったが、
その遺跡はほぼ完璧な状態で残った。彼らの都市放棄の理由
については依然として不可解な謎がある。仮説は様々で、
干ばつによる農作物の凶作説から北方の部族の侵入説まで
幅広くある。
17.ペルセポリス
ペルセポリスは強大なペルシア帝国の中心であり、儀式用
の都市だった。高価な工芸品で装飾が施された美しい都は、
残念ながら今ではほとんど残っていない。紀元前331年、
アレクサンドロス大王によるペルシャ帝国侵攻の際、アテネ
のアクロポリスの焼失の報復としてこの都市は炎に包まれ
焼け落ちた。大マケドニア帝国の属州として、ペルセポリス
はペルシアの首都のままだったが徐々に衰退していった。
16.レプティス・マグナ
現在のリビアに位置するレプティス・マグナはローマ帝国
の中でもひときわ優れた都市だった。この地にあった天然の
港は地中海の重要な拠点であり、サハラ砂漠の貿易の中心
としてこの都市の発展を促し、肥沃な沿岸地域は農産物の
市場となった。この地で生まれてローマ皇帝に君臨した
セプティミウス・セウェレス(在位期間193-211)が都市の
強力な後援者になり、彼の指導のもとに大規模な建設計画が
開始された。その後数世紀が過ぎ、ローマ帝国の財政難が
悪化したことでレプティスの勢いは衰え始めた。
642年のアラブ人による征服後、この都市は廃墟となり、
数世紀の間砂に葬られていた。
15.ウルゲンチ
ウズベキスタンのアムダリヤ川周辺に築かれたウルゲンチ
は、シルクロードの通過点にある大都市の一つだった。
この都市の黄金期は12世紀から13世紀初期で、中央アジア
帝国ホラズムの首都として栄えた。しかし1221年、
ウルゲンチはチンギス・ハーンに破壊された。若い女性達や
子ども達はモンゴルの兵士に奴隷として引き渡され、残された
住民は虐殺された。この都市はチンギスによる破壊後に復活
するが、アムダリヤ川のルートが急に北に移動したために
住民達は永遠にこの場所を去ることを余儀なくされた。
14.ヴィジャヤナガル
ヴィジャヤナガルはかつて人口500,000人を誇る、
世界でも有数の大都市だった。特にヴィジャヤナガル帝国の
最盛期、14世紀から16世紀にかけて都市は繁栄した。
この期間中、帝国はたびたびムスリムの国と戦っていた。
1565年、帝国軍がムスリム軍に大敗し、都市は引き渡された。
勝利したムスリム軍は数ヶ月に渡って徹底的な破壊や虐殺を
続け、都市とヒンドゥーの寺院を破壊していった。
以後この都市は、存在し続けたにも関わらず、本来の首都
ヴィジャヤナガルは再び支配されることも再建されることも
なかった。
13.カラクムル
メキシコはカンペチェ州の密林内部に隠されたカラクムル
は、現在までに発見された最大のマヤ都市だ。カラクムルは
同盟国とのネットワークを使って包囲網を築くことで、当時
絶大なる権力を持っていたティカルに対抗することができた
勢いのある都市だった。6世紀後半から7世紀末にかけて
カラクムルはティカルを完全に潰すには至らなかったものの
優勢になった。ところが、紀元695年、ティカルの総攻撃に
より情勢は再び逆転する。その後最終的に両都市はマヤ崩壊
の余波で消滅していった。
12.パルミラ
ローマ帝国の属州シリアの地中海の港と、ペルシアに
つながるキャラバン隊の通過するルート沿いにあった
パルミラは、何世紀にもわたり、貿易都市て栄えていた。
212年の始め、ササン朝ペルシアがチグリス川と
ユーフラテス川の河口を占領したため、パルミラの交易は
縮小された。都市をササン朝の威嚇から救おうと、
ローマ帝国のディオクレティアヌスが壁を築き都市を拡張
した。634年、パルミラはアラブ帝国のムスリムによって
占領されたが、都市は無傷で保たれた。オスマン帝国の
支配下におかれたパルミラは衰退し、ただのオアシスの
村落程度に小さくなった。17世紀西洋の旅行者によって
この地が再発見された。
11.クテシフォン
6世紀、クテシフォンは世界でも有数の大都市の一つに
数えられ、古代メソポタミアの有力な都市でもあった。
その重要性から、軍事的目標としてまずローマ帝国に占領
され、さらに時を経てビザンティン帝国(東ローマ帝国)にも
侵攻され、合計5回も占領された。イスラム教徒による
ペルシャ帝国侵攻の際、クテシフォンはムスリム軍により
陥落した。8世紀にアッバース朝の首都がバグダッドに
築かれた後、この都市は急速に衰え、まもなく廃墟になった。
クテシフォンは「千夜一夜物語」の中に登場する都市、
イスバニールの元になったと考えられている。場所はイラク
に位置し、現在見ることができる遺跡はホスローのイーワーン
(ホスロー1世の宮殿の一部)の大きなアーチのみである。
10.ハヴァルセー
ハヴァルセーは、グリーンランドに3つあったヴァイキング
の居住地の中でもっとも大きな東の居住地。紀元985年頃、
アイスランドから来たノルウェー人の農民達が定住した。
最も栄えた時期には約4,000人の住民が住んでいた。
14世紀半ば、西の居住地は無くなったが、東の居住地その後
60年から70年間存続していた。1408年、ハヴァルセー教会
で結婚式が行われたという記録があるが、それが最後の
情報になっている。
9.アニ
東西のキャラバン隊の交易ルートに沿いにあったアニは、
紀元5世紀に台頭した後、にぎやかな街に成長して10世紀
にはアルメニアの首都になった。この時期、中世の建築様式
の優れた建築物を含め、多くの教会が建てられ、"1001の
教会がある都市"と謳われた。最盛期のアニには10万から
20万人もの住民が暮らしていた。13世紀にモンゴルが侵攻
し、1319年の壊滅的な大地震が起こるまでは、アルメニア
の代表的な都市だったが、交易ルートの移動により衰退の
一途をたどった。最終的にこの都市は廃墟になり、数世紀
もの間忘れ去られていた。アニの遺跡は現在のトルコにある。
8.パレンケ
メキシコのパレンケはマヤに存在した他の失われた都市
よりも規模が小さかったが、そこにはマヤが生み出した
優れた建築物と彫像が多数存在していた。パレンケの建造物
の多くはおよそ紀元600から800年に造られたものだ。
この都市は8世紀中に滅んだとされている。農業を営む人々
は数世代の間そこに住み続けたが、その後この都市は捨て
去られ、森に覆われ風化していった。
7.ティワナク
ボリビアにあるチチカカ湖の南東の湖畔そばにあった
ティワナクは、インカ帝国の先駆者の遺跡の中で最も重要な
ものの一つに数えられている。紀元前300年から紀元300年
まで存続したティワナクは文化と宇宙の中心であり、多くの
人々が礼拝に訪れたと考えられている。その共同体は7世紀
から9世紀の間に都市レベルの人口に達し、南アンデスの
要所として成長した。最も栄えた時期には1万5千から3万人
の居住者がいたとされているが、最近の衛星画像で、さらに
多かった可能性があると指摘されている。紀元1000年頃、
大規模な気候変動によって、帝国に権力の象徴である
食糧生産が困難になり、消滅していった。
6.ポンペイ
紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が噴火し、
火山灰や土砂が近隣の都市のポンペイを覆った。
その悲劇が起きた日の状況のまま都市は幕を閉じた。
壺やテーブル、絵画などありとあらゆるものに加え、
人々の時間も止まったまま固められてしまった。ポンペイは
ヘルクラネウムの街と共に放棄され、ついにはその地名や
場所も忘れ去られた。この地域が発掘調査で発見されたのは
18世紀のことだった。火山灰に埋もれたまま時が止められた
この都市は、通常では想像できないほど細かい部分まで、
2千年前の人々の暮らしの様子を伝えている。
5.テオティワカン
紀元前2世紀、メキシコの渓谷で新たな文明が生まれた。
この文明は活発な大都市テオティワカンと巨大な階段付き
ピラミッドを築いた。紀元6世紀に起きたテオティワカンの
人口の減少には、気候変動による長期の干ばつが関係していた。
テオティワカン帝国の消滅後およそ700年が過ぎ、
アステカ族がそのピラミッドを崇拝して活用し、
巡礼地になった。
4.ペトラ
時の刻みと同じくらい古い、薔薇のように赤い都市"の
伝説をもつペトラは、ナバテア王国の首都だった。広大で
独特な都市は数世紀前、ナバテア族によってヨルダンの南に
あるワディ・ムーサ渓谷の側面に築かれ、中国、インド
そしてアラビア南部とエジプト、ギリシャ、ローマに通じる
シルクとスパイスの道の重要な中継点になった。幾度にも
わたる地震が水の管理システムに障害をもたらした後、
6世紀にはほぼ完全に捨て去られた。十字軍の遠征後、
1812年にスイスの旅行家ヨハン・ルートヴィヒ・
ブルクハルトに再発見されるまでの間、
ペトラは西側世界に忘れられていた。
3.ティカル
紀元200年から900年の間、ティカルは人口約10万から
20万人を有するマヤの大都市だった。ティカルの人口が
ピークに達した時、周囲の森林伐採による土壌侵食で、
その後の人口は急激に減少した。830年から950年の間に
ティカルはその人口の大半を失い、中枢としての権威も
急速に失墜してしまったようだ。950年以降はほとんど
廃れてしまったが、一握りの住民はその遺跡内部の小屋で
生き延びた。そんな彼らも10世紀または11世紀には
ティカルを捨て去り、その後1000年間、グアテマラの
熱帯雨林だけがこの遺跡の住人であった。
2.アンコール・ワット
カンボジアにあるアンコール遺跡群は、紀元9世紀から
15世紀に存在したクメール王国の首都であり、荘厳な遺跡の
数々で知られる広大な寺院都市である。この中には単一宗教
のモニュメントとしては世界最大の寺院遺跡であるアンコール
・ワットと、巨大な人面像の数々で知られるバイヨン寺院
(アンコール・トム遺跡内)も含まれる。長い歴史の中で、
アンコールの宗教はヒンドゥー教と仏教を行ったり来たり
している。アンコール王朝(クメール王朝)時代は、アユタヤ
王朝の侵入で略奪された1431年あたりまで存続したと
みられている。その後仏教徒の神聖な崇拝地でもある
アンコール・ワット以外の遺跡群はほぼ全て放棄された。
1.マチュ・ピチュ
世界で最も有名な失われた都市の一つであるマチュ・ピチュ
は、数世紀を経て1911年、ハワイ人の歴史家ハイラムに
よってウルバンバ谷の高所で再発見された。"インカ帝国の
失われた都市"は何世紀にもわたって人目に触れず、谷の下
からでは全貌が見えなかった。そこは段々畑に囲まれて
湧き水が流れ、完全に独立していた。ペルーの地元の人々
には知られていたものの、その再発見以前に外界に広く
知られることはなかった。
via:34 Lost Cities Forgotten by Time
原文翻訳:R
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(カンボジア)
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52116489.html
自然災害、あるいは戦争などの人為的災害、
ゴーストタウンと化した都市は世界各国に多数存在する。
元凶がなんであれ、これらの都市は数世紀後に再び発見
されるまでの間、人々の記憶から忘れ去られていたのだ。
34.カルタゴ
フェニキア人入植者により建設され、地中海地域の主要な
都市国家としての支配力を持った。シラクやローマとの
対立が数度の侵略戦争を生み、その中でもスキピオ・
アフリカヌスに率いられたローマの侵攻は目をみはるもの
があった。
紀元前146年にこの都市はローマ人に滅ぼされた。
その後ローマ人はカルタゴ市内を一軒一軒回って破壊や
略奪を行ったり、人々を捕虜や奴隷にした後、この都市を
炎上させた。しかしローマ人はカルタゴを再建し、それは
帝国で最大かつ最重要な都市の一つになった。新しい
カルタゴは紀元698年アラビア人の侵攻を受けて二度目に
破壊されるまでの間は重要な都市として残っていた。
33.シウダー・ペルディーダ
ペルディーダは、コロンビアのシェラネバダの古代都市。
紀元800年頃に建設されたと考えられている。この都市の
山の斜面につくられた台地が連なり、タイル張りの道は
網の目のように広がって小さな円形の広場がいくつかあった。
この地の部族達はこの都市をティアーナと呼び、彼らの
祖先が住んでいた村々のネットワークの中心部、タイロナ
だったと考えていた。この都市はスペインによる侵略の
最中に滅びたようだ。
32.トロイ
よる叙事詩、イーリアスで知られるようになった。
イーリアスによると、この地域はトロイア戦争の舞台と
なった。トロイの遺跡には残骸の層がいくつか含まれている。
その中の第VII層が、ホメーロスのトロイによって記された
紀元前13世紀中期から後期に相当するのでは、
と考えられている。
31.スカラ・ブレイ
はヨーロッパの中で最も保存状態が良好な石器時代の集落の
一つ。1850年に巨大な嵐がこの遺跡の姿を露出させるまで、
何百年もの間砂丘に覆われていた。数戸ある住居は、
この集落が放棄されてからほぼ直後に砂で満たされたため、
石壁は比較的良い状態で保たれていた。またこの島には
樹木が無く、家具類は石造りに限られたこともその理由の
一つだ。およそ紀元前3180年から2500年に人々はここで
生活を営んでいたが、その後の気候変動で寒さや湿気が高く
なり、居住地はその住民によって放棄された。
30.メンフィス
メンフィスは、上エジプトと下エジプトを統一した王である、
メネスの伝説の都市。メネスが支配した土地と、上エジプト
とナイル川のデルタ地帯の間の水路のあるメンフィスは、
初期の頃は要塞都市のようだった。しかしその後ヌビア、
アッシリア、ペルシア、そしてアレクサンドロス3世の
率いるマケドニアによって次々と侵攻される。宗教的な
中心地としての重要性はキリスト教の台頭とそれに続く
イスラム教によって弱められた。紀元640年のエジプトの
ムスリム侵攻後、この都市は見放された。その残骸の中には
プタハの大神殿や王宮、そしてラムセス2世の巨像があり、
メンフィスの埋葬地ネクロポリス、サッカラに残されている。
29.カラル
失われた都市の中では最古の一つ。およそ紀元前2600年
から2000年の間住民が生活していた。3,000千人以上が
定住したとされ、ノルテ・チコ文化時代の都市の中でも
最大級だった。そこには中央の巨大な広場の周辺に6つの
丘が配置してある公共スペースがあり、スーぺ谷にある
他の都市も同じつくりをした小さな丘やストーンサークル
があった。このことから、カラルがこの文明の中心だった
ことが推測できる。
28.バビロン
ユーフラテス川のそばにあった。紀元前1180年頃その都市
は無政府状態に陥ったが、紀元前9世紀以降はアッシリア帝国
の属州としてふたたび栄えた。バビロンの鮮やかな色や豪華
さは、伝説の空中庭園を建設したとされているネブカドネザル
(紀元前604-562年)の時代として世に知られるようになった。
現在この有名な都市の遺跡は全て泥レンガ造りの建物の残骸
や破片になり、イラクに流れるチグリス川とユーフラテス川
の狭間の肥沃なメソポタミア平野に残っている。
27.タキシラ
ペルシアのダレイオス大王に併合された古代都市。
紀元前326年、アレクサンドロス大王に引き渡された。
時代の征服者達に次々と統治され、この都市は有力な仏教徒
の中枢となった。紀元1世紀には使徒トマスがこの都市を
何度も訪れたという。三大交易路の交差する位置にあった
ことが古代タキシラに繁栄もたらした。しかしその交易路が
衰退するにつれ、この都市も廃れた。その後5世紀に入り、
フン族によって滅ぼされた。
26.スコータイ
都市の一つ。元々はアンコールを首都としたクメール帝国内
の地方都市だったスコータイは、13世紀に独立して最初の
タイの連合州の首都となった。その古代の街では80,000人
ほどの人々が生活していたという。その後1351年、タイ王朝
の強力なライバル都市としてアユタヤが台頭し、スコータイ
の影響力は衰え始める。そして1438年、その街は征服され
アユタヤ王国に併合された。スコータイは15世紀の後期から
16世紀初頭まで放棄された。
25.ティムガット
で、およそ紀元100年にトラヤヌス帝によって建設された。
当初、およそ15,000人の住民のために建設された都市は、
急激に拡大し、本来の碁盤目状の区画を超えて広がって
いった。5世紀に入りこの都市はバンダル族に略奪され、
2世紀後にバルバル人に侵攻された。この都市は1881年に
発掘されるまで、ローマ帝国の歴史から消えていた。
24.モヘンジョダロ
現在のパキスタンにあたり、世界でも早期に形成された
集落都市の一つだった。"古代インダス文明"として扱われ
こともある。完璧なパターン設計を用い、計画的に区画整理
がされていた。この都市の最盛期にはおよそ35,000人の
住民がいた。都市の建物は特に文明的で、泥を焼き、
天日干しした同じサイズのレンガと焼きを入れた材木で
できていた。1920年代に発見されるまで、モヘンジョダロ
とインダス文明は紀元前1700年頃の歴史から消滅していた。
23.グレート・ジンバブエ
付けられた理由は、現在のジンバブエあたりに広がっていた
こと、広い範囲に渡って存在する何百もの小さな遺跡と区別
するために"グレート"が付加された。11世紀にバンツー族
によって建造が開始され、作業は300年以上続いた。最盛期
のグレート・ジンバブエには18,000人もの人々が生活して
いたとされている。その勢いが衰え、最終的にこの地が
見放された原因は貿易の減少、政治の不安定や厳しい食糧難、
そして気候の変化による水不足のせいだ、という説がある。
22.ハトラ
でもあった広大な要塞都市ハトラは、幾度もあったローマ
帝国の襲来に対し、その塔で補強された高く厚い壁で耐え
しのいだ。しかし紀元241年、ササン帝国ペルシャの
シャープール1世によって陥落され破壊された。イラクに
あるハトラの遺跡の中でもとりわけローマの建築様式と、
ギリシャのヘレニズム様式が東洋の装飾的な特徴と融合
した寺院は、この文化の偉大さを証明する。
21.サーンチー
紀元前3世紀の仏舎利を納めるための建物(卒塔婆)を始めとし、
紀元10世紀または11世紀の仏教徒の寺や修道院までが
遺跡の中に横たわる。インドで仏教が衰退した後の13世紀、
サーンチーは放置されてあっという間に密林と化した。
この失われた都市は1818年、イギリス人士官によって
発見された。
20.ハットゥシャ
なった。しかし紀元前1200年頃に青銅器時代の崩壊時に
帝国と共に破壊され、その後この遺跡は捨て去られた。
この都市の最盛期の人口は40,000から50,000人だったと
推定されている。木材と泥レンガで造られた移動式の住宅
など跡形もなくなくなってしまったが、石造りの寺院と宮殿
の遺跡はかろうじて残されている。この遺跡は20世紀初め、
トルコの中央部でドイツの考古学者達に再発見された。
最も重要な発見の一つになっているのは規則や手続き、
そして古代近東地域の文学などが刻まれていた粘土製の板だ。
19.チャン・チャン
コロンブスアメリカ到達以前で最大の都市だった。建物は
日干しれんが製で、仕上げには泥を使い、そこにはしばしば
アラビア風の模様が浮き彫りで施されていた。この都市の
中心には数枚の壁で囲まれた要塞があり、中には儀式用の
部屋、埋葬室、そして寺院が設けてあった。紀元850年代に
チムー王国によって建てられ、1470年、インカ帝国によって
侵略されるまで存続し、約30,000人の人々が生活を営んで
いたと考えられている。
18.メサ・ヴェルデ
造られた古代アナサジ族の住居が集まっていることで有名と
なった。12世紀、アナサジ族は奥行きの浅い洞窟の中や、
その峡谷の壁に沿って張り出している岩の下に住居を造り
始めた。中には150もの部屋を有する住居もあった。
1300年には彼ら全員がメサ・ヴェルデから去ったが、
その遺跡はほぼ完璧な状態で残った。彼らの都市放棄の理由
については依然として不可解な謎がある。仮説は様々で、
干ばつによる農作物の凶作説から北方の部族の侵入説まで
幅広くある。
17.ペルセポリス
の都市だった。高価な工芸品で装飾が施された美しい都は、
残念ながら今ではほとんど残っていない。紀元前331年、
アレクサンドロス大王によるペルシャ帝国侵攻の際、アテネ
のアクロポリスの焼失の報復としてこの都市は炎に包まれ
焼け落ちた。大マケドニア帝国の属州として、ペルセポリス
はペルシアの首都のままだったが徐々に衰退していった。
16.レプティス・マグナ
の中でもひときわ優れた都市だった。この地にあった天然の
港は地中海の重要な拠点であり、サハラ砂漠の貿易の中心
としてこの都市の発展を促し、肥沃な沿岸地域は農産物の
市場となった。この地で生まれてローマ皇帝に君臨した
セプティミウス・セウェレス(在位期間193-211)が都市の
強力な後援者になり、彼の指導のもとに大規模な建設計画が
開始された。その後数世紀が過ぎ、ローマ帝国の財政難が
悪化したことでレプティスの勢いは衰え始めた。
642年のアラブ人による征服後、この都市は廃墟となり、
数世紀の間砂に葬られていた。
15.ウルゲンチ
は、シルクロードの通過点にある大都市の一つだった。
この都市の黄金期は12世紀から13世紀初期で、中央アジア
帝国ホラズムの首都として栄えた。しかし1221年、
ウルゲンチはチンギス・ハーンに破壊された。若い女性達や
子ども達はモンゴルの兵士に奴隷として引き渡され、残された
住民は虐殺された。この都市はチンギスによる破壊後に復活
するが、アムダリヤ川のルートが急に北に移動したために
住民達は永遠にこの場所を去ることを余儀なくされた。
14.ヴィジャヤナガル
世界でも有数の大都市だった。特にヴィジャヤナガル帝国の
最盛期、14世紀から16世紀にかけて都市は繁栄した。
この期間中、帝国はたびたびムスリムの国と戦っていた。
1565年、帝国軍がムスリム軍に大敗し、都市は引き渡された。
勝利したムスリム軍は数ヶ月に渡って徹底的な破壊や虐殺を
続け、都市とヒンドゥーの寺院を破壊していった。
以後この都市は、存在し続けたにも関わらず、本来の首都
ヴィジャヤナガルは再び支配されることも再建されることも
なかった。
13.カラクムル
は、現在までに発見された最大のマヤ都市だ。カラクムルは
同盟国とのネットワークを使って包囲網を築くことで、当時
絶大なる権力を持っていたティカルに対抗することができた
勢いのある都市だった。6世紀後半から7世紀末にかけて
カラクムルはティカルを完全に潰すには至らなかったものの
優勢になった。ところが、紀元695年、ティカルの総攻撃に
より情勢は再び逆転する。その後最終的に両都市はマヤ崩壊
の余波で消滅していった。
12.パルミラ
つながるキャラバン隊の通過するルート沿いにあった
パルミラは、何世紀にもわたり、貿易都市て栄えていた。
212年の始め、ササン朝ペルシアがチグリス川と
ユーフラテス川の河口を占領したため、パルミラの交易は
縮小された。都市をササン朝の威嚇から救おうと、
ローマ帝国のディオクレティアヌスが壁を築き都市を拡張
した。634年、パルミラはアラブ帝国のムスリムによって
占領されたが、都市は無傷で保たれた。オスマン帝国の
支配下におかれたパルミラは衰退し、ただのオアシスの
村落程度に小さくなった。17世紀西洋の旅行者によって
この地が再発見された。
11.クテシフォン
数えられ、古代メソポタミアの有力な都市でもあった。
その重要性から、軍事的目標としてまずローマ帝国に占領
され、さらに時を経てビザンティン帝国(東ローマ帝国)にも
侵攻され、合計5回も占領された。イスラム教徒による
ペルシャ帝国侵攻の際、クテシフォンはムスリム軍により
陥落した。8世紀にアッバース朝の首都がバグダッドに
築かれた後、この都市は急速に衰え、まもなく廃墟になった。
クテシフォンは「千夜一夜物語」の中に登場する都市、
イスバニールの元になったと考えられている。場所はイラク
に位置し、現在見ることができる遺跡はホスローのイーワーン
(ホスロー1世の宮殿の一部)の大きなアーチのみである。
10.ハヴァルセー
の居住地の中でもっとも大きな東の居住地。紀元985年頃、
アイスランドから来たノルウェー人の農民達が定住した。
最も栄えた時期には約4,000人の住民が住んでいた。
14世紀半ば、西の居住地は無くなったが、東の居住地その後
60年から70年間存続していた。1408年、ハヴァルセー教会
で結婚式が行われたという記録があるが、それが最後の
情報になっている。
9.アニ
紀元5世紀に台頭した後、にぎやかな街に成長して10世紀
にはアルメニアの首都になった。この時期、中世の建築様式
の優れた建築物を含め、多くの教会が建てられ、"1001の
教会がある都市"と謳われた。最盛期のアニには10万から
20万人もの住民が暮らしていた。13世紀にモンゴルが侵攻
し、1319年の壊滅的な大地震が起こるまでは、アルメニア
の代表的な都市だったが、交易ルートの移動により衰退の
一途をたどった。最終的にこの都市は廃墟になり、数世紀
もの間忘れ去られていた。アニの遺跡は現在のトルコにある。
8.パレンケ
よりも規模が小さかったが、そこにはマヤが生み出した
優れた建築物と彫像が多数存在していた。パレンケの建造物
の多くはおよそ紀元600から800年に造られたものだ。
この都市は8世紀中に滅んだとされている。農業を営む人々
は数世代の間そこに住み続けたが、その後この都市は捨て
去られ、森に覆われ風化していった。
7.ティワナク
ティワナクは、インカ帝国の先駆者の遺跡の中で最も重要な
ものの一つに数えられている。紀元前300年から紀元300年
まで存続したティワナクは文化と宇宙の中心であり、多くの
人々が礼拝に訪れたと考えられている。その共同体は7世紀
から9世紀の間に都市レベルの人口に達し、南アンデスの
要所として成長した。最も栄えた時期には1万5千から3万人
の居住者がいたとされているが、最近の衛星画像で、さらに
多かった可能性があると指摘されている。紀元1000年頃、
大規模な気候変動によって、帝国に権力の象徴である
食糧生産が困難になり、消滅していった。
6.ポンペイ
火山灰や土砂が近隣の都市のポンペイを覆った。
その悲劇が起きた日の状況のまま都市は幕を閉じた。
壺やテーブル、絵画などありとあらゆるものに加え、
人々の時間も止まったまま固められてしまった。ポンペイは
ヘルクラネウムの街と共に放棄され、ついにはその地名や
場所も忘れ去られた。この地域が発掘調査で発見されたのは
18世紀のことだった。火山灰に埋もれたまま時が止められた
この都市は、通常では想像できないほど細かい部分まで、
2千年前の人々の暮らしの様子を伝えている。
5.テオティワカン
この文明は活発な大都市テオティワカンと巨大な階段付き
ピラミッドを築いた。紀元6世紀に起きたテオティワカンの
人口の減少には、気候変動による長期の干ばつが関係していた。
テオティワカン帝国の消滅後およそ700年が過ぎ、
アステカ族がそのピラミッドを崇拝して活用し、
巡礼地になった。
4.ペトラ
伝説をもつペトラは、ナバテア王国の首都だった。広大で
独特な都市は数世紀前、ナバテア族によってヨルダンの南に
あるワディ・ムーサ渓谷の側面に築かれ、中国、インド
そしてアラビア南部とエジプト、ギリシャ、ローマに通じる
シルクとスパイスの道の重要な中継点になった。幾度にも
わたる地震が水の管理システムに障害をもたらした後、
6世紀にはほぼ完全に捨て去られた。十字軍の遠征後、
1812年にスイスの旅行家ヨハン・ルートヴィヒ・
ブルクハルトに再発見されるまでの間、
ペトラは西側世界に忘れられていた。
3.ティカル
20万人を有するマヤの大都市だった。ティカルの人口が
ピークに達した時、周囲の森林伐採による土壌侵食で、
その後の人口は急激に減少した。830年から950年の間に
ティカルはその人口の大半を失い、中枢としての権威も
急速に失墜してしまったようだ。950年以降はほとんど
廃れてしまったが、一握りの住民はその遺跡内部の小屋で
生き延びた。そんな彼らも10世紀または11世紀には
ティカルを捨て去り、その後1000年間、グアテマラの
熱帯雨林だけがこの遺跡の住人であった。
2.アンコール・ワット
15世紀に存在したクメール王国の首都であり、荘厳な遺跡の
数々で知られる広大な寺院都市である。この中には単一宗教
のモニュメントとしては世界最大の寺院遺跡であるアンコール
・ワットと、巨大な人面像の数々で知られるバイヨン寺院
(アンコール・トム遺跡内)も含まれる。長い歴史の中で、
アンコールの宗教はヒンドゥー教と仏教を行ったり来たり
している。アンコール王朝(クメール王朝)時代は、アユタヤ
王朝の侵入で略奪された1431年あたりまで存続したと
みられている。その後仏教徒の神聖な崇拝地でもある
アンコール・ワット以外の遺跡群はほぼ全て放棄された。
1.マチュ・ピチュ
は、数世紀を経て1911年、ハワイ人の歴史家ハイラムに
よってウルバンバ谷の高所で再発見された。"インカ帝国の
失われた都市"は何世紀にもわたって人目に触れず、谷の下
からでは全貌が見えなかった。そこは段々畑に囲まれて
湧き水が流れ、完全に独立していた。ペルーの地元の人々
には知られていたものの、その再発見以前に外界に広く
知られることはなかった。
via:34 Lost Cities Forgotten by Time
原文翻訳:R
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一度は訪れたい、魅惑の世界12の遺跡
天空の城ラピュタのモデルとなったベンメリア遺跡
(カンボジア)
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52116489.html
by buttonde
| 2013-02-02 03:40
| 他
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