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風流荘風雅屋

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お上品を目指す、のんき節

廃墟か遺跡

2013年01月31日 失われた世界34の都市

 自然災害、あるいは戦争などの人為的災害、
ゴーストタウンと化した都市は世界各国に多数存在する。
元凶がなんであれ、これらの都市は数世紀後に再び発見
されるまでの間、人々の記憶から忘れ去られていたのだ。

34.カルタゴ
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 かつて現在のチュニジアに位置したカルタゴは、
フェニキア人入植者により建設され、地中海地域の主要な
都市国家としての支配力を持った。シラクやローマとの
対立が数度の侵略戦争を生み、その中でもスキピオ・
アフリカヌスに率いられたローマの侵攻は目をみはるもの
があった。

 紀元前146年にこの都市はローマ人に滅ぼされた。
その後ローマ人はカルタゴ市内を一軒一軒回って破壊や
略奪を行ったり、人々を捕虜や奴隷にした後、この都市を
炎上させた。しかしローマ人はカルタゴを再建し、それは
帝国で最大かつ最重要な都市の一つになった。新しい
カルタゴは紀元698年アラビア人の侵攻を受けて二度目に
破壊されるまでの間は重要な都市として残っていた。



33.シウダー・ペルディーダ
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 スペイン語で"失われた都市"を意味するシウダー・
ペルディーダは、コロンビアのシェラネバダの古代都市。
紀元800年頃に建設されたと考えられている。この都市の
山の斜面につくられた台地が連なり、タイル張りの道は
網の目のように広がって小さな円形の広場がいくつかあった。
この地の部族達はこの都市をティアーナと呼び、彼らの
祖先が住んでいた村々のネットワークの中心部、タイロナ
だったと考えていた。この都市はスペインによる侵略の
最中に滅びたようだ。

32.トロイ
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 トロイは現在のトルコ北西部の伝説の都市。ホローメスに
よる叙事詩、イーリアスで知られるようになった。
イーリアスによると、この地域はトロイア戦争の舞台と
なった。トロイの遺跡には残骸の層がいくつか含まれている。
その中の第VII層が、ホメーロスのトロイによって記された
紀元前13世紀中期から後期に相当するのでは、
と考えられている。

31.スカラ・ブレイ
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 オークニー諸島のメインアイランドにあるスカラ・ブレイ
はヨーロッパの中で最も保存状態が良好な石器時代の集落の
一つ。1850年に巨大な嵐がこの遺跡の姿を露出させるまで、
何百年もの間砂丘に覆われていた。数戸ある住居は、
この集落が放棄されてからほぼ直後に砂で満たされたため、
石壁は比較的良い状態で保たれていた。またこの島には
樹木が無く、家具類は石造りに限られたこともその理由の
一つだ。およそ紀元前3180年から2500年に人々はここで
生活を営んでいたが、その後の気候変動で寒さや湿気が高く
なり、居住地はその住民によって放棄された。

30.メンフィス
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 紀元前3100年頃に建てられた古代エジプトの首都、
メンフィスは、上エジプトと下エジプトを統一した王である、
メネスの伝説の都市。メネスが支配した土地と、上エジプト
とナイル川のデルタ地帯の間の水路のあるメンフィスは、
初期の頃は要塞都市のようだった。しかしその後ヌビア、
アッシリア、ペルシア、そしてアレクサンドロス3世の
率いるマケドニアによって次々と侵攻される。宗教的な
中心地としての重要性はキリスト教の台頭とそれに続く
イスラム教によって弱められた。紀元640年のエジプトの
ムスリム侵攻後、この都市は見放された。その残骸の中には
プタハの大神殿や王宮、そしてラムセス2世の巨像があり、
メンフィスの埋葬地ネクロポリス、サッカラに残されている。

29.カラル
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 ペルーのスーぺ谷にあるカラルは、アメリカ大陸で
失われた都市の中では最古の一つ。およそ紀元前2600年
から2000年の間住民が生活していた。3,000千人以上が
定住したとされ、ノルテ・チコ文化時代の都市の中でも
最大級だった。そこには中央の巨大な広場の周辺に6つの
丘が配置してある公共スペースがあり、スーぺ谷にある
他の都市も同じつくりをした小さな丘やストーンサークル
があった。このことから、カラルがこの文明の中心だった
ことが推測できる。

28.バビロン
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 メソポタミアの古代帝国バビロニアの首都バビロンは
ユーフラテス川のそばにあった。紀元前1180年頃その都市
は無政府状態に陥ったが、紀元前9世紀以降はアッシリア帝国
の属州としてふたたび栄えた。バビロンの鮮やかな色や豪華
さは、伝説の空中庭園を建設したとされているネブカドネザル
(紀元前604-562年)の時代として世に知られるようになった。
現在この有名な都市の遺跡は全て泥レンガ造りの建物の残骸
や破片になり、イラクに流れるチグリス川とユーフラテス川
の狭間の肥沃なメソポタミア平野に残っている。

27.タキシラ
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 パキスタンの北東部にあるタキシラは、紀元前518年に
ペルシアのダレイオス大王に併合された古代都市。
紀元前326年、アレクサンドロス大王に引き渡された。
時代の征服者達に次々と統治され、この都市は有力な仏教徒
の中枢となった。紀元1世紀には使徒トマスがこの都市を
何度も訪れたという。三大交易路の交差する位置にあった
ことが古代タキシラに繁栄もたらした。しかしその交易路が
衰退するにつれ、この都市も廃れた。その後5世紀に入り、
フン族によって滅ぼされた。

26.スコータイ
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 スコータイはタイ王国の初期に存在した最も重要な歴史的
都市の一つ。元々はアンコールを首都としたクメール帝国内
の地方都市だったスコータイは、13世紀に独立して最初の
タイの連合州の首都となった。その古代の街では80,000人
ほどの人々が生活していたという。その後1351年、タイ王朝
の強力なライバル都市としてアユタヤが台頭し、スコータイ
の影響力は衰え始める。そして1438年、その街は征服され
アユタヤ王国に併合された。スコータイは15世紀の後期から
16世紀初頭まで放棄された。

25.ティムガット
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 ティムガットはアルジェリアにあったローマの植民都市
で、およそ紀元100年にトラヤヌス帝によって建設された。
当初、およそ15,000人の住民のために建設された都市は、
急激に拡大し、本来の碁盤目状の区画を超えて広がって
いった。5世紀に入りこの都市はバンダル族に略奪され、
2世紀後にバルバル人に侵攻された。この都市は1881年に
発掘されるまで、ローマ帝国の歴史から消えていた。

24.モヘンジョダロ
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 紀元前2600年頃に建設されたモヘンジョダロの位置は
現在のパキスタンにあたり、世界でも早期に形成された
集落都市の一つだった。"古代インダス文明"として扱われ
こともある。完璧なパターン設計を用い、計画的に区画整理
がされていた。この都市の最盛期にはおよそ35,000人の
住民がいた。都市の建物は特に文明的で、泥を焼き、
天日干しした同じサイズのレンガと焼きを入れた材木で
できていた。1920年代に発見されるまで、モヘンジョダロ
とインダス文明は紀元前1700年頃の歴史から消滅していた。

23.グレート・ジンバブエ
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 石の遺跡の複合体であるグレート・ジンバブエ。この名が
付けられた理由は、現在のジンバブエあたりに広がっていた
こと、広い範囲に渡って存在する何百もの小さな遺跡と区別
するために"グレート"が付加された。11世紀にバンツー族
によって建造が開始され、作業は300年以上続いた。最盛期
のグレート・ジンバブエには18,000人もの人々が生活して
いたとされている。その勢いが衰え、最終的にこの地が
見放された原因は貿易の減少、政治の不安定や厳しい食糧難、
そして気候の変化による水不足のせいだ、という説がある。

22.ハトラ
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 パルティア帝国の影響下にあり、アラブ王国最初の首都
でもあった広大な要塞都市ハトラは、幾度もあったローマ
帝国の襲来に対し、その塔で補強された高く厚い壁で耐え
しのいだ。しかし紀元241年、ササン帝国ペルシャの
シャープール1世によって陥落され破壊された。イラクに
あるハトラの遺跡の中でもとりわけローマの建築様式と、
ギリシャのヘレニズム様式が東洋の装飾的な特徴と融合
した寺院は、この文化の偉大さを証明する。

21.サーンチー
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 サーンチー遺跡は1千年以上の建築史を持つ。
紀元前3世紀の仏舎利を納めるための建物(卒塔婆)を始めとし、
紀元10世紀または11世紀の仏教徒の寺や修道院までが
遺跡の中に横たわる。インドで仏教が衰退した後の13世紀、
サーンチーは放置されてあっという間に密林と化した。
この失われた都市は1818年、イギリス人士官によって
発見された。

20.ハットゥシャ
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 ハットゥシャは紀元前17世紀、ヒッタイト帝国の首都と
なった。しかし紀元前1200年頃に青銅器時代の崩壊時に
帝国と共に破壊され、その後この遺跡は捨て去られた。
この都市の最盛期の人口は40,000から50,000人だったと
推定されている。木材と泥レンガで造られた移動式の住宅
など跡形もなくなくなってしまったが、石造りの寺院と宮殿
の遺跡はかろうじて残されている。この遺跡は20世紀初め、
トルコの中央部でドイツの考古学者達に再発見された。
最も重要な発見の一つになっているのは規則や手続き、
そして古代近東地域の文学などが刻まれていた粘土製の板だ。

19.チャン・チャン
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 ペルーにあるれんが造りの広大な都市、チャン・チャンは、
コロンブスアメリカ到達以前で最大の都市だった。建物は
日干しれんが製で、仕上げには泥を使い、そこにはしばしば
アラビア風の模様が浮き彫りで施されていた。この都市の
中心には数枚の壁で囲まれた要塞があり、中には儀式用の
部屋、埋葬室、そして寺院が設けてあった。紀元850年代に
チムー王国によって建てられ、1470年、インカ帝国によって
侵略されるまで存続し、約30,000人の人々が生活を営んで
いたと考えられている。

18.メサ・ヴェルデ
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 メサ・ヴェルデはコロラド州南西部に位置し、断崖に
造られた古代アナサジ族の住居が集まっていることで有名と
なった。12世紀、アナサジ族は奥行きの浅い洞窟の中や、
その峡谷の壁に沿って張り出している岩の下に住居を造り
始めた。中には150もの部屋を有する住居もあった。
1300年には彼ら全員がメサ・ヴェルデから去ったが、
その遺跡はほぼ完璧な状態で残った。彼らの都市放棄の理由
については依然として不可解な謎がある。仮説は様々で、
干ばつによる農作物の凶作説から北方の部族の侵入説まで
幅広くある。

17.ペルセポリス
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 ペルセポリスは強大なペルシア帝国の中心であり、儀式用
の都市だった。高価な工芸品で装飾が施された美しい都は、
残念ながら今ではほとんど残っていない。紀元前331年、
アレクサンドロス大王によるペルシャ帝国侵攻の際、アテネ
のアクロポリスの焼失の報復としてこの都市は炎に包まれ
焼け落ちた。大マケドニア帝国の属州として、ペルセポリス
はペルシアの首都のままだったが徐々に衰退していった。

16.レプティス・マグナ
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 現在のリビアに位置するレプティス・マグナはローマ帝国
の中でもひときわ優れた都市だった。この地にあった天然の
港は地中海の重要な拠点であり、サハラ砂漠の貿易の中心
としてこの都市の発展を促し、肥沃な沿岸地域は農産物の
市場となった。この地で生まれてローマ皇帝に君臨した
セプティミウス・セウェレス(在位期間193-211)が都市の
強力な後援者になり、彼の指導のもとに大規模な建設計画が
開始された。その後数世紀が過ぎ、ローマ帝国の財政難が
悪化したことでレプティスの勢いは衰え始めた。
642年のアラブ人による征服後、この都市は廃墟となり、
数世紀の間砂に葬られていた。

15.ウルゲンチ
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 ウズベキスタンのアムダリヤ川周辺に築かれたウルゲンチ
は、シルクロードの通過点にある大都市の一つだった。
この都市の黄金期は12世紀から13世紀初期で、中央アジア
帝国ホラズムの首都として栄えた。しかし1221年、
ウルゲンチはチンギス・ハーンに破壊された。若い女性達や
子ども達はモンゴルの兵士に奴隷として引き渡され、残された
住民は虐殺された。この都市はチンギスによる破壊後に復活
するが、アムダリヤ川のルートが急に北に移動したために
住民達は永遠にこの場所を去ることを余儀なくされた。

14.ヴィジャヤナガル
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 ヴィジャヤナガルはかつて人口500,000人を誇る、
世界でも有数の大都市だった。特にヴィジャヤナガル帝国の
最盛期、14世紀から16世紀にかけて都市は繁栄した。
この期間中、帝国はたびたびムスリムの国と戦っていた。
1565年、帝国軍がムスリム軍に大敗し、都市は引き渡された。
勝利したムスリム軍は数ヶ月に渡って徹底的な破壊や虐殺を
続け、都市とヒンドゥーの寺院を破壊していった。
以後この都市は、存在し続けたにも関わらず、本来の首都
ヴィジャヤナガルは再び支配されることも再建されることも
なかった。

13.カラクムル
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 メキシコはカンペチェ州の密林内部に隠されたカラクムル
は、現在までに発見された最大のマヤ都市だ。カラクムルは
同盟国とのネットワークを使って包囲網を築くことで、当時
絶大なる権力を持っていたティカルに対抗することができた
勢いのある都市だった。6世紀後半から7世紀末にかけて
カラクムルはティカルを完全に潰すには至らなかったものの
優勢になった。ところが、紀元695年、ティカルの総攻撃に
より情勢は再び逆転する。その後最終的に両都市はマヤ崩壊
の余波で消滅していった。

12.パルミラ
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 ローマ帝国の属州シリアの地中海の港と、ペルシアに
つながるキャラバン隊の通過するルート沿いにあった
パルミラは、何世紀にもわたり、貿易都市て栄えていた。
212年の始め、ササン朝ペルシアがチグリス川と
ユーフラテス川の河口を占領したため、パルミラの交易は
縮小された。都市をササン朝の威嚇から救おうと、
ローマ帝国のディオクレティアヌスが壁を築き都市を拡張
した。634年、パルミラはアラブ帝国のムスリムによって
占領されたが、都市は無傷で保たれた。オスマン帝国の
支配下におかれたパルミラは衰退し、ただのオアシスの
村落程度に小さくなった。17世紀西洋の旅行者によって
この地が再発見された。

11.クテシフォン
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 6世紀、クテシフォンは世界でも有数の大都市の一つに
数えられ、古代メソポタミアの有力な都市でもあった。
その重要性から、軍事的目標としてまずローマ帝国に占領
され、さらに時を経てビザンティン帝国(東ローマ帝国)にも
侵攻され、合計5回も占領された。イスラム教徒による
ペルシャ帝国侵攻の際、クテシフォンはムスリム軍により
陥落した。8世紀にアッバース朝の首都がバグダッドに
築かれた後、この都市は急速に衰え、まもなく廃墟になった。
クテシフォンは「千夜一夜物語」の中に登場する都市、
イスバニールの元になったと考えられている。場所はイラク
に位置し、現在見ることができる遺跡はホスローのイーワーン
(ホスロー1世の宮殿の一部)の大きなアーチのみである。

10.ハヴァルセー
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 ハヴァルセーは、グリーンランドに3つあったヴァイキング
の居住地の中でもっとも大きな東の居住地。紀元985年頃、
アイスランドから来たノルウェー人の農民達が定住した。
最も栄えた時期には約4,000人の住民が住んでいた。
14世紀半ば、西の居住地は無くなったが、東の居住地その後
60年から70年間存続していた。1408年、ハヴァルセー教会
で結婚式が行われたという記録があるが、それが最後の
情報になっている。

9.アニ
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 東西のキャラバン隊の交易ルートに沿いにあったアニは、
紀元5世紀に台頭した後、にぎやかな街に成長して10世紀
にはアルメニアの首都になった。この時期、中世の建築様式
の優れた建築物を含め、多くの教会が建てられ、"1001の
教会がある都市"と謳われた。最盛期のアニには10万から
20万人もの住民が暮らしていた。13世紀にモンゴルが侵攻
し、1319年の壊滅的な大地震が起こるまでは、アルメニア
の代表的な都市だったが、交易ルートの移動により衰退の
一途をたどった。最終的にこの都市は廃墟になり、数世紀
もの間忘れ去られていた。アニの遺跡は現在のトルコにある。

8.パレンケ
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 メキシコのパレンケはマヤに存在した他の失われた都市
よりも規模が小さかったが、そこにはマヤが生み出した
優れた建築物と彫像が多数存在していた。パレンケの建造物
の多くはおよそ紀元600から800年に造られたものだ。
この都市は8世紀中に滅んだとされている。農業を営む人々
は数世代の間そこに住み続けたが、その後この都市は捨て
去られ、森に覆われ風化していった。

7.ティワナク
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 ボリビアにあるチチカカ湖の南東の湖畔そばにあった
ティワナクは、インカ帝国の先駆者の遺跡の中で最も重要な
ものの一つに数えられている。紀元前300年から紀元300年
まで存続したティワナクは文化と宇宙の中心であり、多くの
人々が礼拝に訪れたと考えられている。その共同体は7世紀
から9世紀の間に都市レベルの人口に達し、南アンデスの
要所として成長した。最も栄えた時期には1万5千から3万人
の居住者がいたとされているが、最近の衛星画像で、さらに
多かった可能性があると指摘されている。紀元1000年頃、
大規模な気候変動によって、帝国に権力の象徴である
食糧生産が困難になり、消滅していった。

6.ポンペイ
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 紀元79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が噴火し、
火山灰や土砂が近隣の都市のポンペイを覆った。
その悲劇が起きた日の状況のまま都市は幕を閉じた。
壺やテーブル、絵画などありとあらゆるものに加え、
人々の時間も止まったまま固められてしまった。ポンペイは
ヘルクラネウムの街と共に放棄され、ついにはその地名や
場所も忘れ去られた。この地域が発掘調査で発見されたのは
18世紀のことだった。火山灰に埋もれたまま時が止められた
この都市は、通常では想像できないほど細かい部分まで、
2千年前の人々の暮らしの様子を伝えている。

5.テオティワカン
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 紀元前2世紀、メキシコの渓谷で新たな文明が生まれた。
この文明は活発な大都市テオティワカンと巨大な階段付き
ピラミッドを築いた。紀元6世紀に起きたテオティワカンの
人口の減少には、気候変動による長期の干ばつが関係していた。
テオティワカン帝国の消滅後およそ700年が過ぎ、
アステカ族がそのピラミッドを崇拝して活用し、
巡礼地になった。

4.ペトラ
廃墟か遺跡_c0072801_2374719.jpg
 時の刻みと同じくらい古い、薔薇のように赤い都市"の
伝説をもつペトラは、ナバテア王国の首都だった。広大で
独特な都市は数世紀前、ナバテア族によってヨルダンの南に
あるワディ・ムーサ渓谷の側面に築かれ、中国、インド
そしてアラビア南部とエジプト、ギリシャ、ローマに通じる
シルクとスパイスの道の重要な中継点になった。幾度にも
わたる地震が水の管理システムに障害をもたらした後、
6世紀にはほぼ完全に捨て去られた。十字軍の遠征後、
1812年にスイスの旅行家ヨハン・ルートヴィヒ・
ブルクハルトに再発見されるまでの間、
ペトラは西側世界に忘れられていた。

3.ティカル
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 紀元200年から900年の間、ティカルは人口約10万から
20万人を有するマヤの大都市だった。ティカルの人口が
ピークに達した時、周囲の森林伐採による土壌侵食で、
その後の人口は急激に減少した。830年から950年の間に
ティカルはその人口の大半を失い、中枢としての権威も
急速に失墜してしまったようだ。950年以降はほとんど
廃れてしまったが、一握りの住民はその遺跡内部の小屋で
生き延びた。そんな彼らも10世紀または11世紀には
ティカルを捨て去り、その後1000年間、グアテマラの
熱帯雨林だけがこの遺跡の住人であった。

2.アンコール・ワット
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 カンボジアにあるアンコール遺跡群は、紀元9世紀から
15世紀に存在したクメール王国の首都であり、荘厳な遺跡の
数々で知られる広大な寺院都市である。この中には単一宗教
のモニュメントとしては世界最大の寺院遺跡であるアンコール
・ワットと、巨大な人面像の数々で知られるバイヨン寺院
(アンコール・トム遺跡内)も含まれる。長い歴史の中で、
アンコールの宗教はヒンドゥー教と仏教を行ったり来たり
している。アンコール王朝(クメール王朝)時代は、アユタヤ
王朝の侵入で略奪された1431年あたりまで存続したと
みられている。その後仏教徒の神聖な崇拝地でもある
アンコール・ワット以外の遺跡群はほぼ全て放棄された。

1.マチュ・ピチュ
廃墟か遺跡_c0072801_2383061.jpg
 世界で最も有名な失われた都市の一つであるマチュ・ピチュ
は、数世紀を経て1911年、ハワイ人の歴史家ハイラムに
よってウルバンバ谷の高所で再発見された。"インカ帝国の
失われた都市"は何世紀にもわたって人目に触れず、谷の下
からでは全貌が見えなかった。そこは段々畑に囲まれて
湧き水が流れ、完全に独立していた。ペルーの地元の人々
には知られていたものの、その再発見以前に外界に広く
知られることはなかった。

via:34 Lost Cities Forgotten by Time
原文翻訳:R

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http://karapaia.livedoor.biz/archives/52116489.html
by buttonde | 2013-02-02 03:40 | | Trackback | Comments(0)

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